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2006年04月23日の日記   南信州の観光担当者 : gotti

風林火山・神之峯(かんのみね)を巡る物語

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信州・長野県の南部、南信州に位置する「伊那谷(イナダニ)」。
今から450年ほど前の戦国時代、この自然豊かな人情味あふれる
桃源郷(トウゲンキョウ)の地にも、戦乱の火蓋は切って落とされた。

武田家軍師・山本勘助との間で繰り広げられた、知力と知力による壮絶な攻防戦。・・・

史実と伝承に基づく、知久氏と武田軍による壮大なドラマを、
久保田安正先生(飯田市上久堅出身・三穂(ミホ)在住)が書かれた
書籍の中から数回に分けてご紹介いたします。

■提供:上久堅観光協会

風雲・神之峯「勘助殿、参られよ」【1/4】
信玄(しんげん)に一人(ひとり)刃(は)向(む)かい名族(めいぞく)の意地(いじ)を見せた 神之峯城(かんのみねじょう)の知(ち)久(く)頼元(よりもと)
久保田安正 著「伊那谷にこんなことが」第21話より


かわりゆく 世(よ)に色(いろ)かへぬ 松風(まつかぜ)の
おとのみ残(のこ)る 神(かん)のみねかな
                         則直(のりなお)

 慶長(けいちょう)6年(1601年)徳川(とくがわ)家康(いえやす)から三(さん)千石(ぜんごく)の旗本(はたもと)にとりたてられた知久(ちく)則直(のりなお)は、現在(げんざい)の長野(ながの)県下(けんしも)伊那郡(いなぐん)喬(たか)木村(ぎむら)阿島(あじま)に館(やかた)を造(つく)って住(す)みました。
 則直(のりなお)は、稲(いね)の穂(ほ)もたれ始めた9月(今の10月)のある日、5人の共(とも)の者(もの)を引き連(つ)れて、領内(りょうない)の見(み)回(まわ)りも兼(か)ね、先祖(せんぞ)が武田軍(たけだぐん)と戦(たたか)って敗(やぶ)れた神之峯(かんのみね)城址(じょうし)(photo 1)へ足を運(はこ)びました。
神之峰城址1
■photo 1:竜東(りゅうとう)の中腹にそびえる天険(てんけん)の要害(ようがい)「神之峯(かんのみね)城址」
 頂上(ちょうじょう)までは急坂(きゅうざか)ですが、頂上近くまで農民(のうみん)の耕(たがや)している田畑(たはた)がありましたので、細(ほそ)い道は通(つう)じておりました。馬もさすがに息(いき)が荒(あら)く、疲(つか)れたようすで頂上に着(つ)きました。
 城(しろ)が焼(や)かれて47年たっておりましたので、頂上には城の残(ざん)がいは何(なに)もありませんでした。城あとを見て回(まわ)った後(あと)、かがり岩(いわ)(photo 2)に立って見ましたが、回りに松が茂(しげ)っていて遠(とお)くを見(み)下(お)ろすことはできませんでした。
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■photo 2:神之峯城の「かがり岩」に立つ城主・知久(ちく)頼元(よりもと)の勇姿

大きな岩に腰(こし)を下ろしますと、松籟(しょうらい)といわれる「さわさわさわさわ」と梢(こずえ)を吹(ふ)き渡(わた)る松風の音が、先祖(せんぞ)さまのものがたりを語(かた)り聞(き)かせてくれるようで、思わず涙(なみだ)をさそいました。
 則直(のりなお)の脳裏(のうり)(頭の中)には、さまざまな思いが浮(う)かんできました。あの家康(いえやす)でさえも恐(おそ)れていた戦国(せんごく)の武将(ぶしょう)、武田(たけだ)信玄(しんげん)に、一人(ひとり)たち向(む)かった頼元(よりもと)の心意気(こころいき)、ひところ南信(なんしん)(南信州(みなみしんしゅう)の略称(りゃくしょう))に大きな勢力(せいりょく)を築(きず)き上げた知久一族(いちぞく)の落城(らくじょう)と、武田軍(ぐん)に捕(と)らえられて焼(や)かれた神之峯城(かんのみねじょう)をあとに去(さ)っていく頼元の無念(むねん)さ、などなど、時(とき)のたつのも忘(わす)れて感慨(かんがい)にふけっておりました。
 供(とも)の者(もの)たちも、殿(との)を気(き)遣(づか)って声を立てずに、殿と反対(はんたい)の方向(ほうこう)を向(む)いて静(しず)かに腰(こし)を下(お)ろしておりました。
「殿、そろそろいかがですか」
 供の者にうながされて、やっと重い腰を上げた則直(のりなお)でした。

 冒頭(ぼうとう)の詠歌(えいか)は、則直の歌(うた)に『 述懐(じゅっかい) 』(心の中の思いを述べること)という題(だい)をつけて、明治(めいじ)40年(1907年)5月、かつての家臣(かしん)の子孫(しそん)の方々(かたがた)が、神之峯(かんのみね)にある久(ひさ)堅神社(かたじんじゃ)の脇(わき)の大岩(おおいわ)に刻(きざ)み残(のこ)したもの(photo 3)です。
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■photo 3:神之峯の大岩に刻まれた頼元の孫・知久則直(のりなお)の詠歌(えいか)「 述懐(じゅっかい) 」

 知久(ちく)氏(し)の祖先(そせん)は諏訪(すわ)氏(し)ですが、諏訪氏は信州(しんしゅう)でも最(もっと)も古い豪族(ごうぞく)で、代々(だいだい)諏訪上社(かみしゃ)の社家(しゃけ)(神主(かんぬし)さんの家)として伝(つた)えてきました。諏訪氏の十六代(だい)を為仲(ためなか)といいましたが、為仲の弟に為貞(ためさだ)という人がいて、諏訪氏が二家(にけ)に分かれました。
 この弟の為貞(ためさだ)から四代目の孫(まご)が敦忠(あつただ)で、敦忠の四男敦俊(あつとし)は、知久(ちく)十郎(じゅうろう)左衛門(ざえもん)を名乗(なの)り、知久氏の先祖(せんぞ)になりました。
 知久敦俊(あつとし)(知久一代)が、鎌倉(かまくら)時代の初め(800年ほど前)館(やかた)を造(つく)って住んだところは、現在(げんざい)の上(かみ)伊(い)那(な)郡(ぐん)箕輪町(みのわまち)南(みなみ)小河(おご)内(うち)上(うえ)の平(たいら)でありました。敦俊が知久氏を名乗(なの)ったのは、この地方(ちほう)に知久(ちく)沢山(さわやま)・知久沢川(ちくさわがわ)があったからであります。
 承久(じょうきゅう)3年(1221年)という年に承久の乱(らん)という戦(いくさ)がありました。この戦は、後(ご)鳥羽(とば)上皇(じょうこう)(上皇は、天皇(てんのう)の位(くらい)をゆずった方(かた)の呼(よ)び名(な))が、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)の執権(しっけん)という将軍(しょうぐん)に代(か)わって政治(せいじ)をとっていた北条義時(ほうじょうよしとき)を討(う)とうとして、逆(ぎゃく)に負(ま)けてしまったものですが、この戦(いくさ)に、知久信貞(のぶさだ)(知久二代)という人が幕府方(がた)について戦(たたか)いましたので、そのほうびとして、伴野(とものの)荘(しょう)という竜東(りゅうとう)(天竜川(てんりゅうがわ)の東側(ひがしがわ))の地をもらいました。(地頭(じとう)という役人(やくにん)になった)
 そこで、今の飯田市(いいだし)下久堅(しもひさかた)の知久平(ちくだいら)に移(うつ)り、館(やかた)を造(つく)って住みました。知久平の館を中心(ちゅうしん)にして北は小渋川(こしぶがわ)から南は万古川(まんごがわ)までの竜東一帯(いったい)を、竜西(りゅうさい)(天竜川の西側(にしがわ))では、飯沼(いいぬま)・黒田(くろだ)(飯田市上郷(かみさと)の一部)、上野(うえの)(飯田市座(ざ)光寺(こうじ)の一部)をあわせて支配(しはい)するまでになりました。
 しかし、戦国(せんごく)時代(じだい)となり、各地(かくち)で戦(いくさ)が始まると、戦に都合(つごう)のよい飯田市上久(かみひさ)堅(かた)の神之峯(かんのみね)城(じょう)へ移(うつ)りました。神之峯へ移ったのは、文亀(ぶんき)・永正(えいしょう)(1501~1521年)の頃(ころ)であります。
信貞(のぶさだ)という人は弓の名手(めいしゅ)で、・・・・・

【続きは次回 2/4 へ】

■知久氏略系図■
敦俊(あつとし) → 信貞(のぶさだ) → 敦幸(あつゆき) → 敦信 → 敦平 → 敦貞 → 頼昭 → 為行 →

→ 頼矯 ―→ 頼季 → 頼尚 → 頼為 ―→ 頼元(よりもと) ―→ 頼康(よりやす)
→ 宗詢          → 頼輝 → 頼(より)氏(うじ) → 則直(のりなお) → 直政
       (宮寿丸・文永寺六世)        → 頼龍 → 女子
                             (則直の妻)

 

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